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2014年7月24日

木曜日のつぶやき134・与えられし命の半生記①

ビースタイル ヒトラボ編集長 川上敬太郎氏

 「この子は流れる」と言われた母は泣きながら産院を後にし、大学病院の門をたたいた。
 
c140724.JPG 私を身ごもった母のお腹の中には、大きな筋腫があった。その筋腫を処理した後、昭和48年1月に私は帝王切開で取り上げられた。母は私を生むために3度も腹にメスを入れている。その傷跡は生々しく、物心ついて間もないころの鮮烈な記憶として今も脳裏に焼きついている。
 
 幼稚園児の頃は手の付けられない暴れん坊だった。みんながお遊戯していても、自分だけは一人外で縄跳び。正義感の強いリーダー格の男の子が見かねて連れ戻そうとすると、一層暴れて泣かしてしまう。わがまま放題だった。
 
 父も母も働いていたので、小学校1年生からは鍵っ子。学校から帰ると玄関はいつも鍵が掛かっている。合鍵でガチャガチャと開けて、誰もいない玄関で「ただいま」と一言発しても当然、返事はない。親がいないことを確認してランドセルをおろす。
 
 一人っ子の鍵っ子は、どうやって放課後の時間を過ごしていたのか。友達と遊んでいた記憶はあるが、あまりよく覚えていない。
 
 政治家だった父は、幼い私に世の中のいろんなことを教えてくれた。今でも人生の師である。おかげで考え方だけは、ませた子供だった。覚えているのは小学校2年生の時。神とは何かを誰かに一生懸命語っていたこと。内容も状況も全く覚えていない。今でも神とは何なのかさっぱりわからないのに、いったい何を語っていたのか。変な子供だった。
 
 思索することは好きだったが、変に考え込んでしまうところがあった。人はなぜ生まれてきたのか。死んだらどうなるのか。そんなことをあれこれ考える中で、目の前の現実や学校生活のあらゆることに疑問を持つようになった。それはやがて重い悩みになる。
 
 当時の私を知る人は、そのように悩んでいたことを知らなかったはずだ。多感な時期に人知れず悩みを背負ったまま迎えた高校受験。両親ともに教育に携わっていたこともあり、地元を代表する進学校への合格が義務付けられているような心理的圧迫があった。
 
 ぎりぎりまで勉強しなかったが、最後の1週間だけは机にかじりついた。追いつめられていたせいか、その時の記憶は真っ白。合格発表直後、私の爪も真っ白になっていた。
 
 長く続けてきたコラム連載も、今回を含めてラスト3回。あと2回、私の半生を振り返って締めくくらせていただきたい。

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