Q 若者に限らず、「何のために働くのか」が分からないという人が増えていますが、どのように向き合ったらよいものでしょうか。
A 労務管理や部下指導などの仕事に携わっていると、現場において、「なぜ働くのか」という問いに向き合う機会が増えてきます。若手からの疑問や迷いといった視点に限らず、ある程度キャリアを重ねた人であっても、ふとした瞬間、「なぜ働くのか」というシンプルな問いに直面することがあります。
自分と家族の生活を守り、幸せにするため。自社の利益を確保し、さらなる成長発展を遂げるため。あるいは、共に働く仲間やお客様、これまでにご縁をいただいた人たちの期待に応えるため――。どれも間違いなく正解であり、尊い目的です。ただ、年齢を重ねるにつれて、それだけでは説明しきれない感覚を持つ人も少なくありません。個人の価値観や信条に依拠する部分が大きいとはいえ、「生活のため」や「家族のため」を第一目的として働いているという自覚や自負とともに、自分の内側から湧き上がる衝動のようなものに突き動かされている日々の仕事に使命感をもって取り組んでいるという感覚が期待されるのかもしれません。
社会には、仕事や職業観を取り巻くポリシーとして、「家族のため」「会社のため」「生活のため」という共通言語があります。これらは社会における一種の「共通ルール」であり、摩擦を起こさないための安全な言葉だと言えます。しかし一方で、人間には倫理観があります。自分や自社の損得だけを考えてガツガツと突き進むことにはどこか躊躇いがあり、年齢やキャリアを重ねるにつれて「利他の精神」を意識していくのは、ごく自然な心の流れでもあります。
人生も経営も、決して良いことばかりは起こりません。いつ病気にかかるか、いつ家族に予期せぬ不幸が訪れるか、あるいは不可抗力による大きな社会的危機に直面するかは、誰にも予測できません。災害や大病といった深刻な苦難を味わった人が異口同音に口にするのは、「人生観が変わった」という言葉です。これらの声に共通するのは、「いつか訪れるかもしれない苦難」をまったく想定せずに生きることには、どこか危うさをともなうということです。
少し哲学的な話になるかもしれませんが、人生の原点にあるのは、ある種の「死生観」だと思います。人間は「死」を意識することによって、逆に「どう生きるか」が見えてくる生き物です。自分の人生の終わりの日に、何を思い、どこへ向かおうとしているのか。その問いを意識することから、働き方や生き方は大きく変わっていくのではないでしょうか。
自分や家族、会社だけを守るために働くことは、もちろんかけがえのない大切なことですが、一方で、人生の最後の日に、「本当は挑戦したかった」と後悔する生き方は避けたいと思うのも人間の本能です。人間は、挑戦しなかった未練は心に深く残りますが、本気で挑戦して失敗した後悔は、案外残らないものではないでしょうか。
ときに人は、「お金がないから」「肩書がないから」「能力や規模が足りないから」、だから自分には無理だと諦めの理由を口にします。確かに、客観的に見ればその通りであることも多いでしょう。しかし、それが都合の良い「方便」や「言い訳」になっている側面も否定できません。そう言っておけば周囲も納得し、摩擦も起きず、何よりも自分の心を一時的に納得させることができるからです。
しかし、そうした構図そのものを大局的にとらえることで、「せめて自分に嘘をつかずに生きよう」と考える視点も大切かもしれません。人生とは、結局のところ、自分自身との約束だともいえるからです。その意味においては、自分や家族の幸せを超えて、「人生を通じて成し遂げたいこと」があるという感覚を持ちながら生きること自体が、実は幸せの本質なのかもしれません。
人生百年時代といいますが、多くの働き盛りの世代はまだまだ折り返し地点です。笑われても、大きな夢を追い続ける大人がいて、年齢を理由に可能性を閉じない人がいていい。そんな"生意気な同時代人"が増える社会の方が、AI時代にはむしろ人間的な構図にも見えます。
働く意味とは、単に生計を立てることだけではありません。「自分はどう生き切りたいのか」。年齢や肩書やキャリアに関わらず、その問いに向き合い続けること自体が、働くことの本質なのかもしれません。
(小岩 広宣/社会保険労務士法人ナデック 代表社員)






















