労働市場改革の基本理念
大野 多様化、高度化する労働市場の改革には、多角的な視点と打ち手が必要となります。政府は現在、リスキリング(学び直し)と職務給の導入、労働移動の円滑化を柱とする「三位一体の労働市場改革」を推し進めており、3つは連動しています。それは「キャリア」という横串で繋がっているように感じますが、「キャリアを活かす労働市場」という観点から考え方を聞かせてください。
鎌田 「キャリア」という言葉から、ハイエンド人材がより高い地位や報酬を目指して上昇していく姿を想像する人がいます。もちろん、それもキャリアの一つです。しかし、私が考えるキャリアはそれだけではありません。「ライフキャリア」という考え方を重視しています。人生には、結婚、出産、育児、介護、病気など、さまざまな出来事があります。正社員としてフルタイムで働いていた人が、育児や病気をきっかけに働き方を変えることもあります。「キャリアを活かす」とは、一本道で昇進することだけではなく、ライフイベントに合わせて働き方を調整しながら、人生全体の中で自分の仕事を組み立ててやりがいを感じることだと思います。
そう考えると、キャリアもいくつかタイプがあるように思います。一つは、同じ会社の中で様々な部署を経験してその企業の中核的人材となるようなタイプで、伝統的な組織内キャリアのタイプです。また、企業の中で経験を積むうちに、自分の得意分野ややりがいを感じる仕事が見えてくることがあります。その仕事を継続したいのか、社内で専門性を高めたいのか、別の企業へ移って能力を活かしたいのか。スペシャリスト型のキャリアを志向するタイプは企業内での昇進のほかに、特定の仕事・専門性を追求すること、企業を越えて能力を発揮することを重視する傾向があります。それだけではなく、私はテンポラリー型キャリアと呼んでいますが、生活と両立しながら断続的に働くことを志向するタイプもあります。こうした様々なキャリア志向をもつ人たちにとってなにがベストマッチングかを考える必要があります。こうした違いを踏まえて「個人のキャリアを支援する労働市場」が必要です。
個人の価値観やライフプランを重視
大野 有期雇用の働き方や短期就労などもキャリアの一部と考えるのでしょうか。
鎌田 正社員になりたいのに、やむを得ず有期で働いている人はいます。そうした人へのセーフティーネットや正社員転換支援は重要です。一方で、正社員以外の雇用形態で働くすべての人が正社員になることを望んでいるとは限りません。例えば、俳優を目指しながら生活のためにコンビニエンスストアで働く人がいたとします。その人にとって、コンビニでの仕事は、俳優としての活動と生活を両立させるために選んだひとつの働き方です。この人のキャリアを考える際、正社員へ転換させることだけが正解とは限りません。
政策が「すべての人を正社員にすること」を唯一のゴールとすると、個人の価値観やライフプランをかえって無視してしまう可能性があります。必要なのは、本人がどのような人生を送り、その中で仕事をどう位置づけたいかを尊重することです。同時に、あらためて本人の意思に反して不安定な働き方を強いられている人には十分な支援を行う必要があります。
企業と個人のキャリア希望を話し合う「再交渉」の視点
大野 幅広く「キャリア」の存在をみていく必要性がわかりました。では、正社員の働き方の場合で「個人のキャリアを活かす」には何が大切でしょうか。
鎌田 新卒で入社した時点では、自分の適性ややりたい仕事が分からない人も多いと思います。数年間は企業がさまざまな仕事を経験させて、人材を育てる日本型の仕組みには一定の合理性があります。しかし、ある程度の経験を積み、自分の得意分野や希望するキャリアが見えてきた後も、企業側が一方的に配置や仕事内容を決め続けることには問題が生じてきます。
これからは、企業の経営上の必要性と個人のキャリア希望をあらためて話し合う機会が必要となります。私はこれを労働契約の「再交渉」と呼んでいます。例えば、育児のため長時間労働や残業が難しくなった、病気をきっかけにテレワーク中心の働き方を希望したい、専門分野が定まりその仕事を継続したい、職務内容や勤務地を限定したい、報酬と職務範囲を見直したいなどを理由に、企業と労働者がそれぞれの事情と希望を提示し合い、仕事内容や働き方、報酬などを「再交渉」するのです。こうした対話のテーブルを「契約上の仕組み」として導入する必要があると思います。
欧州のジョブ型雇用と日本の前提の違い
大野 三位一体の労働市場改革には「職務給の導入」が謳われています。日本でいわゆる「ジョブ型雇用」を進める場合、どのような点に注意すべきでしょうか。
鎌田 欧州、とりわけドイツのジョブ型雇用と、日本で議論されているジョブ型雇用は前提が異なります。ドイツでは、学校教育と職業資格が強く結びついています。学校を卒業して職業資格を取得し、その資格を前提に労働市場へ入ります。契約で職務が明確に限定され、契約外の仕事を行うことは他の人の職域を侵すことにもなりかねません。日本では学校教育と職業資格、採用職種がそこまで明確に結びついていません。法学部を卒業してIT企業へ入社することも珍しくなく、企業に入ってから仕事を学ぶ構造があります。
このため、日本で最初から職務を厳格に限定することには難しさがあります。一方、10年、20年と職務を限定しない状態を続けることも個人のキャリア形成という点では適切ではありません。一定の経験を積んだ段階で、本人の希望と企業の必要性を確認し、職務や働き方を「再交渉」する。日本では、このような段階的な仕組みが現実的だと思います。社内フリーエージェント制を採用している企業もありますが、それは「再交渉」のきっかけになると思います。
安心して転職できる環境とは
大野 では、成長産業への円滑な労働移動を進める際、見落としてはいけない観点はありますか。
鎌田 まず必要なのはリスキリングを含む教育訓練です。新たな産業へ移動するには、そこで必要とされる能力を身につける機会が必要です。これは労働者だけでなく、フリーランスなども含めて考える必要があります。もう一つ重要なのは、転職先に関する情報です。転職希望者の変化のところでもお話した通り、賃金や勤務時間などの労働条件だけでは十分ではありません。求職者が知りたいのは、自分のスキルや経験を生かせる仕事か、研修制度は整っているか、希望する仕事を継続できるか、配置転換はどの範囲で行われるか、入社後にどのようなキャリアを築けるか、働き方を相談・変更できる仕組みがあるかなどです。
労働条件の事前明示では、業務や勤務地の変更範囲も記すことになっています。しかし実際には、「会社の定める業務」「就業規則に定める範囲」といった曖昧で広い表現が使われているケースが散見されます。特に、転職組は特定の仕事やスキルを生かすことを期待して移ることが多いのですが、入社後に企業の人事権でどこへでも異動させられるのであれば、安心して転職することはできないのです。円滑な労働移動を実現するには、政策として移動を促すだけでなく、転職先の仕事とキャリアの「見える化」が不可欠です。
(つづく)
【お知らせ】労政インタビュー(下)は、10月7日(水)に掲載します。
鎌田 耕一氏(かまた・こういち)1952年生まれ。中央大学法学部法律学科卒、中央大学大学院法学研究科博士前期課程修了(法学修士)。釧路公立大、流通経済大の教授を経て東洋大法学部教授、現在、名誉教授。2019年から21年まで厚生労働省の労働政策審議会会長を歴任。このほか、労政審労働力需給制度部会部会長、「ハローワークの求職情報の提供に関する検討会」座長、フリーランス法の「就業環境整備」に関する有識者検討会座長、有識者会議「労働市場における雇用仲介の在り方に関する研究会」座長などを務める。
大野 博司(おおの・ひろし) 1970年生まれ。中央大学大学院戦略経営研究科(MBA)修士。日本新聞協会加盟の地方紙に入社、2004年に報道デスク歴任後、東京支社で国会取材兼論説委員。2010年に雇用労働の専門媒体・アドバンスニュースの設立に参画し、代表取締役(主筆)。日本外国特派員協会会員の労政ジャーナリストとして、NHKラジオ「Nらじ」などに出演して多様な働き方などを解説。労働法制と人材サービス企業の最前線で取材をこなす。






















